緊急事態宣言が明けて、渋谷に降り立ち、 ポップアップエリアに3日間立ちました。
そのとき、同じフロアや近隣施設などもウロウロ。 新コンセプトで開店したダイソーにも立ち寄ったり、低価格から高価格帯のプロダクトを時間の許す限りみてきたのです。
そこで感じたことは、サスティナブルな商品の割合が多いこと。 …多いこと。
同じポップアップの中でも果物の皮を使った財布、植物性100%の化粧クリーム…など。100円ショップでも同様に原料に配慮したアイテムが並んでいました。
見渡せば、サスティナブル。SDGs。 それがトレンド最先端な渋谷に集まっているのかと思うと、 すごい時代になったなと喜ぶ反面、「これでいいのかな」と思う 私がムクムクと現れ始めました。
一種のムーブメントで終焉するのでは、という苦言を呈すわけじゃなくて、なんかふと、 「これって本当にサスティナブルなんだろうか、、、」 というまた一段と厄介な感情です。苦笑
確かに自然由来やエコなどはサスティナブルです。 NATIVE TEAのパッケージもバイオマス素材を用いています。
でもサスティナブルな商品を、サスティナブルじゃないものと同じ便利さで提供するのって本当にサスティナブルなのかなぁ。
つまりは果物の皮財布は、完璧なまでに皮財布なのです。 NATIVE TEAのパッケージも、完璧なまでにパッケージなのです。(めちゃくちゃこだわっています!) でも、俯瞰して見ると、旧態依然の仕様に素材が変わっただけ。
いやそれでも進歩だよ、そうでもしないとサスティナブルは浸透しないよ。
それもそうなんだけれど、次に私たちが考えるのは、 ある一定の不便さを感じても、その不便さがゆえに、自分たちができることの手段を増やすことなんじゃないかなって思うんです。
どこからが文明の退化だと捉えるかだと思うんですけれど、 今の世の中は便利すぎて、その素材が変わったとて、 日常が変容して行かないと、不便にも慣れていかないと、私たちはゆっくり本能が退化していくのではないのでしょうか。
例えば果物の皮でできた長財布。 これを組み立ては自身でやるとすれば 財布の仕組みもわかるし、さらに愛着がわくし、 再現性が自分の中で生まれる。 その手間が省ける分お得だろうし、 例え工場の仕事が一時なくなっても その時間は作り手・受け手も知恵の時間になる。
そんな、便利と不便のバランス。 これをデザインするのが、今後提供する側として考えるべき使命なのではないかなとふと帰りの電車に揺られながら思ったのです。(この時点でティーバッグの選択を今後しない事を誓いました)
話が逸れるかもしれないですが、 茶摘みはその年の気候で日付が若干前後します。 確定するのは3日前ほど。
茶の葉の状態が一番いい瞬間を日々茶農家さんが確認し そこから茶摘みの人を呼び集めます。 まさしく自然ファーストの世界。
でも並んでいるのは全ての工程が終わった後の世界。 全ての工程が終わった後の世界が、まち中に集まって サスティナブルを歌っていても、 自然と人間の距離は近くなっていくのでしょうか。
例えば花を育てたり、盆栽を育てたり、 子育てだったり、ペットのお世話だったり、 決して正解のないものにわざわざ手をかけるのは 面倒だけれども私たちはそこに 父性・母性といわれるように 「性=本能」を感じる。 それが唯一無二の記憶となり、財産になる。
だとしたら、
不便さを埋めるのは、人間が本来持っている愛おしさ。 そして愛おしさを育てるのがサスティナブルの結論ではないかな。
と、東急プラザの煌びやかな天井を見上げながら思ったのです。
なのできっと、これからのブランドは、 美しさ、不便さ、手軽さ そんな複雑性に富んだ視点を 持ち合わせていかないといけないような気がします。
例えば、NATIVETEAのリーフティーの追求とともに もうひとつ。手間がかかるけれど、自然と人が近くなるラインを持つとか。(ほうじ茶手作りキット?うーんちがうなぁ・・)
考えていく必要はありそうです。 そんな、お茶の美味しさを知ってもらった後の先のことを想った、ポップアップ中のひとときでした。
|